三振アウトではなかった 〜WSJT-X F/HモードのリリースノートとMSHV誤解の話〜 ― 2026年03月07日 23時14分17秒
はじめに
2026年、アマチュア無線界に激震が走りました。
ブーベ島、3Y0K。
アフリカ最南端、南極に近い絶海の孤島。常時荒れ狂う南大西洋の波に囲まれ、上陸すること自体が命がけのこの島は、アマチュア無線界において長年「世界で最も欲しいエンティティ」のひとつとして君臨し続けてきました。過去に何度かペディションが試みられ、そのたびに悪天候や上陸失敗で夢と消えてきた場所です。
そのブーベ島からの電波が、ついに飛んできた。
世界中のハムがパイルアップに殺到しました。FT8のウォーターフォールは信号で埋め尽くされ、SNSはリポートで溢れ、ChronoGPSのダウンロード数が跳ね上がりました(これは私事ですが)。
私もパイルアップに参加しながら、SNSをモニターしていました。そこで目についたのが、繰り返し登場する2つの意見でした。
「1000Hz以下で呼んだのにコールバックがあった。だからMSHVだ。」
「三振アウトのはずなのに応答があった。だからMSHVだ。」
どちらも結論が「だからMSHV」に着地しているのが興味深い。MSHVはマルチストリーム運用ができる優れたソフトウェアですが、今回の3Y0Kの動作を説明する理由としては、どちらも的外れだと思っています。
そして正直に告白すると、2つ目の「三振アウト」については、私自身もつい最近まで間違った理解をしていました。
今回はその話を、できるだけ丁寧に書いていきます。
F/HモードかMSHVか、まず前提を整理する
議論を始める前に、まず前提を確認しておきます。
3Y0Kの公式ホームページには、F/H(Fox & Hound)モード使用と明記されていました。これが一番シンプルかつ強力な根拠です。ペディションチームが自ら「F/Hを使う」と言っているのだから、まずそれを信じるべきでしょう。
では「動作がMSHVっぽかった」という感想はどこから来るのか。それを理解するためには、F/Hモードの動作原理を正確に知っておく必要があります。
F/Hモードの基本をおさらい
WSJT-XのF/H(Fox & Hound)モードは、2018年にK1JT(Joe Taylor)によって開発されました。DXペディション局(Fox)が同時に複数のQSOを高レートでこなすための専用モードです。
基本的な周波数の使い方はこうです。
FoxはDF 300〜900Hzの範囲で送信します。複数スロット同時送信の場合は60Hz間隔で並びます。
HoundはDF 1000〜4000Hzの範囲で呼びます。
この棲み分けが、F/Hモードの根幹です。
そしてFoxの動作で重要なのが以下の2点です。
- Foxは1000Hz以下の信号もデコードするが、応答しない。
- HoundはTx1(グリッドスクエア付き)で呼ばなければFoxは応答しない。
「デコードしない」ではなく「応答しない」というのが正確な表現です。この違いは後で重要になってきます。
誤解その1:「1000Hz以下で呼んだのにコールバックがあった!→だからMSHVだ!」
これはSNSで最もよく見かけた誤解です。
まず整理しましょう。
F/HモードのFoxは、1000Hz以下の信号もデコードはしています。ただ応答しないだけです。Foxのウォーターフォールを見ると、1000Hz以下のHoundの信号も赤くハイライトされて表示されています。見えているけど、無視している。それがF/Hモードのデザインです。
では「1000Hz以下で呼んだのにコールバックがあった」という体験はどう説明するのか。
答えはキャッシュにあります。
Foxのシステムは、過去数シーケンスでデコードしたHoundのコールサインを記憶しています。つまり、あなたが1000Hz以上でTx1(グリッドスクエア付き)で呼んでいたシーケンスがあれば、その情報はFoxのキャッシュに残っています。その後うっかり1000Hz以下に移動して呼んでいたとしても、キャッシュから選ばれてコールバックが来ることがある。
「1000Hz以下で呼んだのに応答があった」は「MSHVだから」ではなく、「以前1000Hz以上で正規に呼んでいたから」である可能性の方がずっと高い。
ここで一度、自分の運用を最初から振り返ってみてください。本当に一度も1000Hz以上でTx1で呼んでいませんでしたか?😅
多くの場合、「1000Hz以下でしか呼んでいない」という記憶は不正確で、実際にはどこかで1000Hz以上で呼んでいるのではないかと思います。
さらに言うと、WSJT-XのHoundモードには自動周波数制御があります。Foxから応答が来た後、Houndは自動的にFoxのDF近辺に移動してR+rptを送ります。このとき1000Hz以下に移動することがあります。しかしこれはシーケンスの途中での移動であり、最初のコールは1000Hz以上だったはずです。「1000Hz以下で呼んだ」という記憶は、このシーケンス途中の移動と混同されている可能性があります。
* ここで《キャッシュ》と書いているものは【Queue】の事ですが、読む方が理解しやすいように敢えて《キャッシュ》と記しています。
誤解その2:「三振アウトのはずなのに応答があった!→だからMSHVだ!」
ここが今回のブログの本題です。そして冒頭でも書いた通り、私自身もつい最近まで間違った理解をしていました。
K1JTが書いたF/Hモードの公式マニュアル(2018年)には、Fox側の動作としてこう書いてあります。
"We use a '3 strikes and you're out' rule. Fox will call a specific Hound up to 3 times, waiting for an 'R+rpt' response. If a Hound repeatedly sends an 'R+rpt' message, Fox will send RR73 up to 3 times. Finally, the total timespan of an attempted QSO is limited to 3 minutes. When any of these timeouts is exceeded, the QSO is aborted."
これを読んだ多くの人が「3回失敗したら終わり、最初から呼び直し」と理解しました。私もそうでした。
「三振アウト」という表現は野球のルールそのものですから、わかりやすい。3回ダメなら次のバッターに交代、という理解は自然です。
ところが——。
リリースノートを読むと世界が変わる
Facebookでこの話をしていたところ、Michael Flensted Möller氏(トップコントリビューター)から指摘を受けました。
「リリースノートを読んでみて」と。
WSJT-X 2.6.0-rc5(2022年11月29日)のリリースノートにこう書いてあります。
"Fox now responds for another two cycles to stations whose report was not received, increasing the success rate for a difficult QSO."
「Foxは、レポートを受信できなかった局に対してさらに2サイクル応答するようになりました。これにより難しいQSOの成功率が向上します。」
つまりこういうことです。
- Foxが3回コールバックしてもHoundのR+rptが届かない
- FoxはそのHoundをキューからドロップする(三振)
- しかしその後2サイクル、FoxはまだそのHoundのR+rptを待っている
- そのウィンドウの中でR+rptが届けばRR73が返ってくる
つまり実質5回のチャンスがあるわけです。
三振アウトではなかった。😄
私はこれを読んで正直驚きました。マニュアルには書いていない。リリースノートにしか書いていない。しかも2022年の変更だから、2018年のマニュアルに書いてないのは当然です。
「三振のはずなのに応答があった」はMSHVだからではなく、WSJT-X 2.6.0-rc5以降の仕様変更によるものだったわけです。
ちなみにこの変更の意図は明確で、「難しいQSOの成功率を上げる」ためです。プロパゲーションの変動や一時的な混信で3回のウィンドウを逃してしまうことがある。そのためのバッファとして2サイクルを追加した。K1JTたちの細かい配慮が感じられる変更です。
マニュアルだけでは足りない、という話
今回の件で改めて強く思ったのは、マニュアルを読んだだけで理解した気になるのは危ないということです。
WSJT-Xは2018年のF/Hモード導入以来、細かい改善を重ね続けています。マニュアルはその時点のスナップショットに過ぎません。現在の動作を正確に理解するには、リリースノートまで追いかける必要がある。
リリースノートは確かに長い。WSJT-X 2.7.0-rc5のリリースノートを全部読もうとすると、かなりの時間がかかります。でも読むと発見があります。
例えば今回の「5回チャンス」の話だけでなく、リリースノートには他にも興味深い変更が記録されています。SuperFoxモードの導入(2.7.0-rc5)、MSHVのマルチストリーム信号をHoundモードで正しく処理するための改善(2.7.0-rc1)、Fox向けのキュー管理の改善(2.6.0-rc5)など、実際の運用に直結する変更が多い。
「なんかうまくいかない」「なんか動作が変わった気がする」という時、リリースノートを読むと「あ、そういうことか」という答えが見つかることがあります。
マニュアルは入口で、リリースノートが現在地への地図だと思っています。
MSHVについて補足
MSHVを否定したいわけではありません。MSHVはLZ2HV(Christo)が開発した優れたソフトウェアで、マルチストリーム運用によって複数局と同時にFT8/FT4のQSOができます。実際に多くのDXペディションで使われています。
MSHVを使っているDX局を呼ぶ時、Hound側は特別な設定は不要です。普通にFT8でQSOするのと同じです。DFの制限もありません。グリッドスクエア付きで呼んでもいいし、最初からR+rptで呼んでもいい。MSHVのマルチストリームはHost側の話であって、呼ぶ側には透過的です。
F/HモードとMSHVを混同するのは、この「呼ぶ側に制約があるかどうか」という点で大きな違いを生みます。F/Hモードには1000Hz以上でTx1で呼ぶという明確な制約がある。MSHVにはそれがない。この違いを理解した上で運用することが大切です。
最後に:体験談と原理理解の関係
体験談は大切です。「こうしたらうまくいった」「こうしたらうまくいかなかった」という実経験は、アマチュア無線の楽しさの核心だと思っています。
ただ、体験から結論を導く前に一歩立ち止まることも大切です。「なぜそうなったのか」を考える手がかりは、マニュアルとリリースノートの中にある。
「1000Hz以下で呼んだのにコールバックがあった」→「だからMSHVだ」ではなく、「なぜコールバックがあったのか」を考える。キャッシュの存在を知っていれば、F/Hモードでも説明がつく。
「三振アウトのはずなのに応答があった」→「だからMSHVだ」ではなく、「リリースノートに何か書いてないか」を調べる。2.6.0-rc5に答えがあった。
使っているソフトウェアの動作原理を正しく理解した上で運用する方が、うまくいった時もうまくいかなかった時も、ちゃんと理由がわかって面白い。そしてその理解が、周囲への迷惑を減らすことにもつながります。1000Hz以下に居座り続けるQRMも、正しい知識があれば防げる話ですから。
アマチュア無線は技術を楽しむ趣味です。技術を楽しむなら、その技術の中身を知るのも楽しみのうちだと思っています。
リリースノート、ぜひ読んでみてください。📖
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